更に続きです。



世論の変化と共に、既存マスコミもその正体を暴露されつつあります。

5月2日の朝日新聞は社説でネットには、ゆがんだ考えと行動を肯定する言葉が飛び交い、「反日」「国益を損ねる」といった言い方で、気に入らない意見を敵視し、排除しようという空気が強まっているとし、多様な言論の場を保証し、権力のゆきすぎをチェックするのがメディアの使命だ。立場や価値観の違いを超え、互いに尊重し合う民主社会の実現に、新聞が力になれるよう努めたい、と主張しました。

まるで、自分だけが正しいといわんばかりです。

朝日は、権力のゆきすぎをチェックするのがメディアの使命だ、と言っていますけれども、権力がメディアに対して何かした訳でもありませんし、ネットに飛び交う言葉も権力を委託された者の言葉でもありません。

「メディアは日本国家をつぶすために存在しているのかと最近つくづく思う」と正直な感想を述べた自民党の下村博文・元文部科学相にしても、今現在は、閣僚でもありません。

無論、権力が言論弾圧した訳でもありませんね。

したがって、朝日が批判するこれらの言葉は単なる意見の表明であり、それこそ、朝日にとっての「異論」ということです。

それを気に入らない者を敵視し、排除しようとする言論だというのであれば、朝日が安倍総理や麻生財務相を引き摺りおろそうと、根拠のない印象操作を何度も繰り返している行為も「気に入らない者を敵視し、排除しようとする言論行為」そのものといえるでしょう。

自分の行為には目を瞑り、自分を批判する行為は許さない。酷いダブルスタンダードですし、朝日幹部が発したとされる「安倍の葬式はうちで出す」という言葉の何処にも「尊重」など見られません。

作家の百田尚樹氏は「文化大革命を産経が批判したら北京支局を追放。後に読売・毎日と続き、最後まで批判せずに残ってたのは朝日新聞」と述べていますけれども、批判されたら追放する、これこそが言論弾圧であり、権力の行き過ぎというべきものでしょう。

けれども、朝日はそれを批判しなかった。つまり朝日のいうところの「権力のゆきすぎ」とは何のことはない自分の気に入らない権力を攻撃する口実に過ぎないということです。偏向報道といわれても仕方ありません。

偏向報道という意味ではテレビ局もそうだといわれて久しいですけれども、その理由として他国からの干渉があるのではないかとも言われています。

5月3日、九州国際大学長の西川京子氏は「美しい日本の憲法をつくる福岡県民の会」の集会で、陸上自衛隊の日報問題を取り上げ、「出さない方が悪いとやっているのは完全に日本のメディアではない」と発言。「いろいろな調査をした」とした上で、日本のテレビ局の建物の中に、中国や韓国のテレビ局が入居していることを指摘。「以前は一部だったが、今は中枢にいるんですよ。日本人、何やってるんだと言いたい。この人たちとの戦いだということです、憲法改正は……同じビルに中国、韓国のテレビ局が入っている。完全に乗っ取られているんですね。この人たちとの戦い」と述べました。

テレビ局の住所が中韓のそれと同じであることは、昔から指摘されていたことですけれども、中枢にまで入り込んでいるというのであれば、由々しき事態です。

西川京子氏は講演後、報道陣に対し「コメンテーターは憲法改正に賛成じゃない人が圧倒的に多い。バランスが取れていない」と述べていますけれども、中韓の意向を組んだ報道は、見方によっては「異論」だといえなくもありません。けれども「異論」である以上、異なる元となる意見がある筈です。それを報道しないのであれば、それこそ「気に入らない者を敵視し、排除しようとする言論行為」というしかないですね。

それを考えると、報道に偏りがあるものだということを前提として、いろんな報道の参入を認める。いわゆる放送法の改正はやはり行うべきだと思いますね。
 

コメント

 コメント一覧 (1)

    • 1. 戦時は便衣兵
    • 2018年05月04日 16:45
    • 放送法の改正に賛成致します。
    • 0
      kotobukibune_bot

      kotobukibune_bo

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