昨日の続きです。



昨日のエントリーでは、文芸評論家の小川榮太郎氏に対する朝日の訴訟は、いわゆるスラップ訴訟であり、北朝鮮の遣り口と変わらないと述べましたけれども、この訴訟について、作家の百田直樹氏が次のようにツイートしました。
朝日新聞がこの訴訟に勝てば、今後、朝日新聞の記事を批判する者はいなくなる。

しかし負ければ、朝日新聞は新聞社として命運を断たれる。

普通はこんな危険な大勝負は打たないものだが、朝日新聞はそこまで追い込まれているか、あるいはまともな判断力を失っているかのどちらかだろう。
百田氏が指摘するとおり、今回の訴訟は朝日にとっても危険な博打です。小川氏の「検証本」を虚報だとして訴えたのが裁判で退けられたとしたならば、朝日は検証に耐えうる記事を書いていないということになるからです。

先日も鹿砦社という出版社が12月22日付の朝日新聞の記事「ネットで顔さらされヘイト投稿 衝動的に髪を切った夜」の矛盾点を指摘する記事を掲載していますけれども、これは虚報として訴訟しないのでしょうか。

このように、朝日の記事は多くの人から様々に検証されては間違いを指摘され叩かれています。今や、ネット界隈を中心に、ソースが朝日というだけで、眉唾で読むもの扱いされつつあります。それ程に悪評が定着してきている。

けれども、だからといって、討論を拒否して訴訟に訴えるのは言論機関としてはどうかと思いますね。

また、つい最近、ツイッターなどで話題になっている、朝日新聞編集委員・高橋純子氏 の「安倍政権の気持ち悪さ伝えたい」というインタビュー記事もそうですね。

記事中で、高橋氏は、読者に読んでもらうには「論の精緻さよりも、筆者の感情を込めた文章」が要るとして、「自分のモヤモヤした感情をなんとか言葉にして読者に伝える」と述べています。これでは報道ではなく、単なるアジテーションになってしまいます。

また、高橋氏は「新聞の中立性」について、「中立って、真ん中に立つことでも、両論併記でもないはずで、各人が「正しい」と思うことを発信し、議論したりせめぎ合ったりする中でかたちづくられるものだ」としています。

筆者は中立という記事は存在しないという意見には同意しますけれども、であるならば、自身はこういうスタンスで記事を書いているのだと高らかに看板を掲げるべきです。高橋氏が「正しい」と思うことは他の人も同じように「正しい」と思うとは限らない訳で、であればこそ「議論したりせめぎ合ったり」する必要があります。

高橋氏は自身でそのように主張していながら、小川榮太郎氏の批判に対して議論もせず、せめぎ合うこともしません。高橋氏はインタビューの前に自社に向かってそう吼えるべきでしょうね。

高橋氏はインタビューで安倍政権のことを「権力を持っている人たちの振る舞いが暗に異質な他者を排除するような空気を社会につくり上げ、メディアの批判も届きにくい」だとか「安倍政権はぷよぷよしたゼリーみたいなもので包まれている感じがする」とか「人間のルサンチマンをあおって利用する」だとか、随分批判していますけれども、具体的な何がどうだからという論証はなく、自身の感想を述べている印象しか受けません。

まさに「エビデンス? ねーよそんなもん」状態です。

高橋氏の主張を聞くと、2チャンネル創始者のひろゆき氏ではないですけれども「なんかそんなデータあるんですか」、「あなたの感想ですよね」、「嘘つくの止めて貰っていいですか」なとど聞きたくなってしまいます。

高橋氏にしてみれば、自身の「モヤモヤした感情を言葉にしている」だけかもしれませんけれども、それを読まされる読者は、その記事自身に「気持ち悪さ」を感じるだけです。

朝日の中の人が全部が全部そうとは思いませんけれども、どこか世間とはどんどん乖離しているような気がしますね。


 

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